横浜の夏の始まりを告げる花火が今年復活した。昨年は中止されていた国際花火大会の後継イベントで横浜港花火ショーの名になったそうだ。山下公園前の海域がメイン会場なのは同じだが、時間も規模は縮小され、有料観覧者に手持ち花火をやってもらう参加型の花火大会になったやら。帆船日本丸のあたりからでも高く上がった花火を見ることはできた。
屋形船
2010年07月17日 横浜市中区
夜のミナト横浜は浮かれ気分で満たされていた。いつのまにか梅雨はどこかへ行ってしまったようで、雨の心配はご無用という夏の夜の空模様。まだ風は涼しい。薄着の若者たちが連れ立って歩き、久々に観光地らしい賑わいが戻っていた。赤レンガパークで海風にあたっていたら、屋形船がやってきた。船で宴会している連中はまるで大学生のノリだった。開けっ放しの船の上で邦楽のカラオケを次々と歌っていて賑やかだった。
茅ヶ崎城址5
2010年07月16日 横浜市都筑区(10日撮影)
茅ヶ崎城址の郭の回りには空堀が守っていた。関東ローム層の台地なので水を張るわけにはいくまい。堀は70度の急傾斜で深く掘り込まれていたそうだ。堀自体は地面の下に埋め戻され、室町時代の様子は想像してみるほかない。ここは、安土桃山時代以降に城が治世の役割を担うようになる以前の城の役割、合戦時に籠城するための山城の姿のまま廃城になって、現代まで城址が受け継がれてきた貴重な場所だった。次は下草が枯れた冬に訪れてみよう。
茅ヶ崎城址4
2010年07月15日 横浜市都筑区(10日撮影)
西郭に佇む。草が茂っているところが西郭の跡地らしい。一段高くなって木立が茂っているところは土塁と記述してあった。この土塁の規模は他に比べて段違いに大きい。土塁の反対側は急斜面で守られている。茅ヶ崎城は江戸幕府ができたときに廃城になったという。往時の城がどのようなものか、どのように使われてきたのかわからないようだ。ましてや、他の郭から一つ離れた西郭が何のために作られたのか不明のようだ。ぽつんと「西郭」とだけ書いた案内表示が一本立っているだけだった。
茅ヶ崎城址3
2010年07月14日 横浜市都筑区(10日撮影)
中郭の斜路から東郭を望む。城址に立ててある説明によると、茅ヶ崎城には石垣も水堀もなかったようだ。北郭、中郭、東郭、西郭、東北郭、腰郭の6つの郭(くるわ)が現存し、それらのうち入れるのは北・中・東・西の4つ。郭はてっぺんが平らな原っぱで周囲を人の背丈ほどの土塁が囲んでいる。土塁の外は急斜面で郭と郭の間は空堀になっていて、ところどころ土を盛って作った土橋で結ばれている。土橋は通れず、郭から郭へ移るには一度斜面の下まで降りて上がる。
茅ヶ崎城址中郭
2010年07月13日 横浜市都筑区(10日撮影)
茅ヶ崎城が最初に築城されたのは、太田道灌と長尾景春の争いの一つ、小机合戦の頃らしい。それから後北条氏がこの近辺を支配下に置くまでの間、この近辺で幾度も合戦が起きた。ここは中原街道を見下ろせ、鶴見川の向こう側の小机城を監視できる立地にある。見張りが立ち、いざというときの籠城に備えたのだろう。中郭には倉庫と塀が立っていたことが発掘でわかったそうだ。光画左手の草が茂っているあたりが倉庫のあった箇所と案内板にあった。
茅ヶ崎城址1
2010年07月12日 横浜市都筑区(10日撮影)
正覚寺の門が見えたところで振り返ると、林で覆われた丘が目に入る。そこが茅ヶ崎城址だ。時計回りに丘の裾を道なりにぐるりと回ったところに入り口がある。一歩足を踏み入れると、雰囲気が一変する。大きな土塁の間を細道が巡り、いかにも山城跡に入ったという気分になる。この城址は長く発掘調査がおこなわれていて立ち入れなかった。調査が終わり、部分オープンしたのが一昨年のこと。今は完全オープンしている。